大いなる秋田とその仲間に捧ぐ 嵯峨哲夫です
多くの皆様には「初めまして」の嵯峨哲夫です。皆さんと一緒に昭和47年に入学しました(藤田和平先生が担任の1E…たぶん…でした)が、父の仕事の関係で2年生になる時に仙台に引越し、以来秋田には秋大附属中学校の同窓会で何度か戻った以外ご無沙汰しております。
ブラスバンドで一緒だった佐々木章君にこのHPを教えて頂いて折々楽しく拝見しておりましたが、先日やはりブラバンで一緒だった柿沼(南)志津子さんが、島礼君との情報交換が私が9年前に東京で開いた還暦記念発表会(後述)に来て下さったのが切っ掛けと書いておられたので、何だか嬉しくなってHPの「お問い合わせ」欄にそんなことを書き込んだところ、早速にこのリレーエッセイのご指名を頂きました。皆さんの3分の1しか在籍していない不束者がしゃしゃり出るご無礼をお許し下さい。
昨年5月に久しぶりに秋田を訪ねた際、まず真っ先に母校に足を伸ばしましたが、既に校舎は建替えられており、考えてみりゃここに通ったのは50年以上前かと改めて驚きました。
例えば高校野球の全国大会をTVで観ているとき、子供の頃はお兄さん世代が出場して活躍する場面にワクワクしていたのが、やがて同級生世代が主人公になり、その主人公が気が付けば子供世代に、そしてもうじき孫の世代になっていくことに月日の経過を感じます。
大人になってから昔のことを思い出す時、「あれから10年かぁ」「あれからもう20年経つのかぁ」と懐かしみながら、この先10年・20年後の自分はどうなっているのだろうと思い描くことが出来ましたが、高校時代を振り返るとこの先50年後の自分を描くことはほぼ不可能であることに気づき、少ししょんぼりします。
父が残してくれた大量の8ミリ映像に、昭和30~40年代の秋田の様子が沢山出て来ます。千秋公園の動物園、木内デパートの屋上遊園地、下浜海水浴場、住んでいた新屋の祭りの様子。まあ、人の多いこと。子供の数が激減しているのは事実ですが、総人口は当時より今の方がまだ多いはず。子供は外で遊ぶのをやめて家でゲームに興じ、高年齢者は家や施設に閉じこもり、要は町に出る人が圧倒的に少なくなってしまったのでしょう。寺山修司が若者に向けて「書を捨てよ、町へ出よう」と呼びかけたのは今から約60年前。今なら「じいじもばあばも、へやみ(背病み?)こかねで町さ出れ」と言うところでしょうか。
中学・高校で親しんだブラスバンド(楽器はトロンボーン)から、大学では男声合唱に転向。東京六大学の交流で、佐々木章君と私がそれぞれの所属大学の学生指揮者を務めた縁で一緒にステージに立ったのも佳き思い出です。
就職後も職場の合唱団や大学のOB合唱団で歌い続け、還暦を迎えたのを機に単独の発表会を2017年5月に東京駅最寄りの小さなホールで開催。秋田時代の友人知人にも多数おいで頂きました(小島壽志君は秋田から、島礼君は仙台から駆け付けてくれました。菅貞郎君、柿沼さん、有難うございました。)。
そこで歌った19曲の中で一番気持ちがこもったのが、「秋田県民歌」でした。ブラバン時代、同期の工藤弘史君のユーフォニウムが朗々と奏でた旋律は、故郷の豊かな思い出そのものです。
昨年秋田を訪ねた際に足を延ばした寒風山の、60年以上回り続けている?回転展望台から見えた鳥海山の姿や、帰りの秋田駅のホームから仰いだ太平山に高1時代に皆で登った(鵜沼(鈴木)順さんが以前ここに書いておられましたね)のも、みんな「大いなる秋田」の素敵な思い出。
島礼君がクラリネットを再開したとの記事を拝見しました。41年前の私の結婚披露宴で演奏してくれたベニーグッドマンの名曲は、一生の宝物です。
大学卒業後、今は名前の無くなってしまった都市銀行に28年間奉職。セカンドキャリアを食品業界で過ごしています。毎年の人間ドックで身長が数ミリずつ縮んでいくのがとても悲しいですが、何とか元気に現役の端くれで頑張っています。
以上、お伝えしたいことはまだまだありますが、いい加減にこの辺でやめます。ここのルールでは次にお書きいただきたい方を指名することになっているようですが、何せ3分の1男ですので指名するなどおこがましく、そこは佐々木章さんのご判断にお任せいたします。
最後までお読みいただいて、有難うございました。 (2026年3月31日)

“大いなる秋田とその仲間に捧ぐ 嵯峨哲夫です” に対して2件のコメントがあります。
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おばんです。3F/ブラスバンドの榊です。「転勤」「大いなる秋田」にピピっと来たのでコメントさせて頂きます。
秋高は1年間で引っ越しされてとても大変でしたね。私の転勤は高2頭で4人子供がいたので単身赴任を選択。毎月里帰りして再度赴任先に戻る(自宅を振り返って見る)時の情け無い事・・・。とても辛い単身赴任でした。何の為の転勤だったのか今も謎です。
大いなる秋田を歌われたのですね。個人的には、大いなる秋田かホルストのジュピターか?・・・。どうすればこんな奇跡的ないい音楽が作れるのか! 聞く度に感動で泣けて来ます。歌の経験はあまり無いのですが「こんないい歌知らねえだろう」と言って、自宅で子供達に歌って聞かせた事がありますよ。秋高の校歌も。
嵯峨哲夫くんと同様、絶対に忘れ無い思い出がたくさんできました。いいこともありますよね。これからもますます元気で頑張りましょう!
嵯峨君、ブラバンで一緒だった佐々木章です。本当にお久し振りでしたね。よくぞリレーエッセイを書いてくれましたね!感謝申し上げます。
ブラバンでの楽器は私もトロンボーンでしたが、伊藤吉男先生からコンクール前の練習で、嵯峨君、武藤憲一君と共に自由曲の「タンホイザー」のパートを1人ずつ吹かせられて、嵯峨君の素晴らしい音色に感心したことをよく覚えています。また、君は初見の楽譜を見ながら音楽室のピアノをよく弾いていましたがこれもまた驚愕でした。
東京六大学合唱連盟ではお互いに学生指揮者(学指揮)でしたが、君が大学の定期演奏会で指揮した「わが歳月」が素晴らしかったので、翌年私も同曲を自分の大学の定演で指揮させてもらいました。
何かと繋がりがある嵯峨君とは今年ひさしぶりに一献をと思っています。お互いに元気で再会しましょう!